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認可外保育所ガイド

0歳〜6歳の教育園《ラバント世田谷園》2020年4月八雲自由が丘園開園お知らせ

お知らせ・イベント

古典に学ぶいろいろ

 『実語教』というのは、平安後期に起源を持つ子供向けの道徳教科書である。江戸時代には寺子屋の素読用教材として用いられていた。原文は五文字で一句、全体は九十六句で構成され、学問の大切さを諄々と説いている。智は、財を超える人間の価値であり、智を得る為には学問をすることが何よりも大切だと諭す。

 『実語教』は、広く江戸時代、明治期にまで子供を導く格好の道徳教科書としての役割を果たしたものである。その内容は、現代の世の中にも十分に適用する根本的、本質的な教訓が多く、堂々たる古典として今後も活用可能は貴重な一書である。

 山の価値、本質は高さではなく、茂る樹木にあり、人の価値、本質は体の大きさではなく、その智力、知性にある。
 財産は一生の大切な宝ではあるが、死ねば無用になる。だが、人間の智力、知性は後世にまでその価値を残して伝わる。
 
宝石は原石のままでは光はなく、石や瓦と同じだが、磨けば光を生み、宝石に変わる。人も同じで、学ばなければ智力、知性は育たない。学ばなければ愚人のままだ。
 このように、平易は言葉で、重厚な人生の在り方を説くのが『実語教』である。寺子屋や私塾で長く広く使われた教材だが、問題の多い現代にこそ改めて読みたい古典である。


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2020.05.25更新

一言添ええる温かみいろいろ

電話をかけると、親しい間柄であれば大抵の場合「お世話様になります」という言葉が添えられる。そうすると、ことらからも「こちらこそ」という言葉を贈る。そうして心が通じ合い、そこに和やかな雰囲気が生まれる。

 だが、稀に「はい」といか言わない人もいる。
「山田さんですか」「はい」「野口です。いつもお世話になっております」「はい」「山田先生はいらっしゃいますか」「いません」「いつ頃お帰りですか」「分かりません」「そうですか、失礼致しました」「はい」ガチャン。
―何とも味気なく、がっくりと疲れを覚える。

 会話は、表面上の「伝達・やりとり」だけで要件がすめばいいとういうものではない。言葉の背後にある思いを忖度し合いながら進行してこそ、豊かな会話になるのである。先の電話でも一応の要件は伝わるがまことに貧しい受け応えであって、面白みも温もりも感じられない。

「プラスの一言」が大切なのである。「お早うございます」も、「さようなら」も、「お邪魔しました」も、それだけでは何かが足りない。言い残したこと、心に思うことを「一言添える」だけで、人間関係はずっと細やかになり、明るくなり、楽しいものになるのである。


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2020.05.22更新

幸せは、感謝の中にしかない。いろいろ

人は誰でも幸せを求めて生きる。幸せは万人の願いであり、望みであり、例外はない。不幸を求めて生きる人はいない。だが、現実の世界の中には幸せな人もいれば、不幸な人もいる。一体、幸せな人生を送る秘訣は何なのだろう。

 幸福というものは、感謝の中にしか成立しない。「有り難い」と心から思えた時、人は幸せな気分に浸る。感謝を忘れ、不平や不満が心を満たす時、人は不幸になる。幸せだから有り難いのではなく、有り難いと思うから幸せになれるのである。

「有難うございます」という言葉は、自分を幸せにするだけでなく、相手も幸せにする力を持っている。「有り難うございます」という言葉を言えば言うほど、心に思えば思うほど幸せは増えていくのである。

 言葉は、心の贈り物だ。優しい心は優しい言葉を選び、荒んだ心は荒んだ言葉を選んで口に出す。心が言葉を生み、言葉が心を育てるのである。そして、心も言葉も、それにふさわしい行動や表情を伴って成り立つ。

「失礼致します」と心から思えば軽い会釈が自然に付いてくる。労りの言葉は、自ずと相手に近づき、そっと手を添えたくもさせる。それがごく自然な人間としての身のこなしである。美しい動きはそうして生まれるのだ。


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2020.05.21更新

言葉は最高、最上の文化いろいろ

大自然の持つ力には、人智の粋を集めても到底太刀打ちできない。それほど強大、巨大なエネルギーを有している。

台風、地震、津波、竜巻、豪雪などは、自然の猛威を容赦なく我々に見せつける。大自然の営みは、神の御業であり、神は、大自然を美しく、強固に作られた。創造主として神が崇められるのはこれ故にである。

 人間が長い歴史をかけて磨き上げ、作り上げてきた多くの文化の最上、最高の傑作が「言葉」である。人々は言葉によって物事を考え、生み出し、伝え合い、残し合って今日の輝かしい文明を築き上げてきた。この現代文明は言葉なくしては決して有り得ない。言葉は、人間の作った文化の中でも最高の偉大な金字塔である。

 その尊い「言語文化」を、私達は大切に、大切に育てていかなければならない。言葉を粗末にすることは、文化を粗末にすることであり、最上の文化を軽んずることは、人間そのものを粗末にすることにもなる。

 言葉を尊び、言葉を大切にし、言葉の力を生かす為には、日々の私達の何気ない言葉遣いにも目を向けることから始めなければならない。言葉はあまりに便利で重宝なものである故に、とかく我々は「無意識、無自覚、無目的に」言葉を使い流し、使い捨てがちであることを自戒したい。


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2020.05.20更新

「敬語」は、日本独特の言語文化いろいろ

日本人は、昔から「敬語」を用いて相手を敬う心を育ててきた。相手と自分との関係、立場、親疎の度合いを、敬語という言葉遣いによって伝え合い、使い分けてきた。俺、僕、私などは相手と場面によって適切に使い分けるべきだ。
 「今日は」とうのは日常用語である。それが改まった場面では「本日は」とう言い方に変わる。同様に、普段なら「―です」と言う言葉が「―であります」というような言葉遣いにも変わる。これらは、いずれもその時や場面や状況に会うように、言葉を変えて相応の敬意を表現する表れである。日本の美しい伝統の一つとして敬語を大切にしていきたい。

敬語の根本思想は「互敬」という点にある。吉川栄治は、「我以外皆我師」と言った。「自分以外は、全て私の先生なのだ」という考え方であり、人生を深く洞察した見事は名言である。このような思いで日々を謹んで暮らしたら、その人の人生はきっと心豊かなものになるだろう。人と人とが、互いに相手を敬い合う「互敬」の精神で日々を送ったら、世の中はどんなに和やかで、楽しく、美しいものになることだろう。
 そのような心を育てる基礎は、日々の言葉遣いから培われ、育まれていくものである。敬語を大切にしていきたい。


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2020.05.19更新

返事は相手の為にするものいろいろ

返事をするのは本人である。だから、元気よく返事をするのも、大きく言うのも小さく言うのも、それは本人の自由だ、と考えがちである。
だが、それは違う。返事は「相手の為にするものだ」という大事な「目的」を忘れているからだ。返事というものは、正に「相手の為に」こそ存在するものなのだ。

どんな返事をしたら相手に好感をもたれるか。どんな返事の仕方が相手を不快にするのか。そういう相手への心配り、心遣いが前提になって初めて返事の仕方、返事の方法が決まってくる。明るい返事と暗い返事、温かい返事と冷たい返事、優しい返事と恐い返事、丁寧な返事と乱暴な返事というように、返事一つにも色々な表情がある。
返事一つで、相手を安心させもし、不安にもする。返事一つで、相手に好感を与え、不快感を与える。返事一つにもその人なりの人柄が表れる。普段の返事にも、相手を思いやる心遣いが欲しい。

大きく呼ばれたら大きく、小さく呼ばれたら小さく答える、というのは、相手の心に寄り添った返事をしようということだ。相手の心を明るくするのが良い返事なのである。


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2020.05.18更新

返事がその人の性格も作るいろいろ

西尾実教授に「言いにくいことば」という随筆がある。嘗て、国語の教科書にも載った一遍である。
「ノー」も言いにくいが、それに対する「イエス」にあたる、「はい」「いいえ」「そうです」などということばも、なかなか言いにくいばあいがある。おもしろく遊んでいるときに用事を言いつけられたりすると、「はい」が言いにくいことは、だれでも小さいときから経験していることである。しかし、そういうとき、聞こえないふりをしていたり、顔をふくらせてしぶしぶ仕事にかかったりするようなことが習慣になると、それが性格のようになってしまう。

ここには二つの大切なことが書かれている。一つは「はい」という返事が決して易しくはないということ、もう一つは、ある行動が「習慣」になると、やがてそれはその人の「性格」になる、ということだ。いつでも、どんな場合でも「はいっ」と、誠実に、明るく返事ができることが肝要である。そのように自らを努め続けることによって、やがてそれは習慣となり、結果として誰からも好かれ、大切にされる「性格」が形成されていくからである。
 また、「返事」は「返す事」であるから、相手に届く声量が不可欠なのである。


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2020.05.15更新

素直さの正体いろいろ

さる先輩に「伸びる人と伸びない人の違いは何か」と問うたことがある。先輩は、まるで私の問いを長く待っていたかのように言下に答えた。「それは素直さだよ」「素直な人は必ず伸びる。素直でない者は伸びない」と。
 あれから三十年余を経て、いよいよこの言葉の重さを実感している。素直な人は順調に人間として成長し、年とともに相応の地位を得て活躍の舞台を広げている。素直さを欠くものは、結局世間に認められぬまま終わっていることが多い。むろんそれのみではないが、一般的には「素直さ」こそが「伸びの要件」と断言できる。

 では、その素直さ、とはどういうことであろうか。それは、相手や他者の言動を「受け入れる」「受容する」ということだ。素直でない者は、受容を拒み、疑い、時には反発して抗い、時には敵対する。
忠告や忠言は、時に耳に逆らい、人を不快にするが、素直な者はそういう自我を抑えて、まずは「受容」する。換言すれば「自分の現状を否定し、破壊し、相手の言を受け入れる」のである。反対に、現状に固守する者は、その場に留まる。その場に留まる者は「伸びない」ままで終わる。
 他者の忠言、忠告、叱正、注意を、ひとまずは有り難く「受容する」ことが「素直さ」の正体であり、伸びる鍵だ。


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2020.05.14更新

行く先と帰宅時刻を伝える大切さいろいろ

夜の十時を過ぎても帰宅しない娘を案じて母親が長男にその迎えを頼もうとする場合の描写―。

 「博之ちゃん。あのね、聖子がまだ帰ってこないんだけど、あなたどこへ行ったか知ってる?」/部屋は沈黙していた。そうだ!きっと博之は自殺しているんだ!雅子は恐怖に駆られて、部屋の扉をどんどん叩いた。/「博之ちゃん、開けて、お願いだから!博之ちゃん!」/部屋の戸は荒々しく開けられた。あまりぱっと、労りもなく、内側へ引かれたので、雅子は体の重心を失ってよろけた。/「聖子が帰って来ないのよ。どこへ行ったか知らない?」/「知るわけないでしょう。僕、聖子とここ一か月ぐらい話したことないもの」/「そう」/「僕、勉強してるんだから、邪魔しないでよ」/「そう、じゃあね」
曽野綾子著『虚構の家』(文藝春秋)
 
娘を案ずる母親の雅子の不安、それを癒す言葉もない博之の冷淡と非情。大学教授呉由一郎一家の、これが荒涼たる家庭風景である。このような家庭は例外かもしれないが、必ずしもそうとも断じ切れないうそ寒さも感じてしまう。ごく身近な、小さな「言葉と作法」の躾を忘れた家庭が辿るであろう当然の道行きを、この小説は我々に暗示している。


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2020.05.13更新

意味の深い食事の挨拶いろいろ

 食事は毎日三度、ずっと続けられる楽しみな時間であり、大切な営みだ。家族揃っての食事や団欒は、子供にとっても、大人にとっても最も心の安らぐひとときである。

 昨今、この重要なひとときが崩れかけてきている。テレビによって団欒が奪われたり、家族がばらばらに食事をとる「孤食、個食」も増えつつあると聞く。淋しいことだ。このような傾向が心の虚ろや淋しさを生み、不登校や非行やいじめの直接、間接の原因ともなっているのではないか。
「戴きます」という言葉は、食材や料理に対して「かけがえのない大切な生命を、私が戴きます。有り難うございます」という、深い感謝の表明である。
「ご馳走様でした」の「馳」は、乗り物で走り廻ることであり、「走」は自分の足で走り廻ることである。御飯一粒、パン一切れでも、それが私達の口に入るまでには、多くの人手がかかっている。たくさんの人が「走り廻る」ことによって毎回の食事が戴ける。夥しい人々の「馳走」への感謝を表明する言葉が「御馳走様でした」とうい挨拶である。「有り難うございました」「おいしかったです」と言う言葉がごく自然に口に上るようになることが望ましい。因みに、「戴きます」「御馳走様」という挨拶は、世界に例がないようで、日本固有の美徳と言える。


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2020.05.12更新